2009年12月01日

〔TBS動画〕大仁田厚氏が長崎知事選に出馬

元参議院議員でタレント、プロレスラーの大仁田厚氏が来年2月に行われる長崎県知事選挙に立候補する意向を明らかにしました。

http://www.youtube.com/watch?v=ctieOefKrA8



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ラベル:大仁田厚
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〔日テレ動画〕逮捕状の米兵の子供4人、引き渡されず

http://www.news24.jp/articles/2009/12/01/07148899.html

警視庁は、逮捕状を更新し、引き続きアメリカ軍に引き渡しを求める方針。



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ラベル:武蔵村山市
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「ヤフーニュースのトピックス」公式twitter開設

Name:YahooNewsTopics

http://twitter.com/YahooNewsTopics

Yahoo!ニュースのトピックス公式twitterです。
トピックス編集部が、365日24時間体制でニュースをチェック。
Yahoo! JAPANトップページへの掲出とほぼ同じタイミングで選りすぐりのニュースをお届けします。



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ラベル:twitter
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「大仁田厚」氏が長崎県知事選への出馬を正式に表明した

☆県知事選、大仁田氏が出馬の意向 「故郷に恩返ししたい」 (長崎新聞)

http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20091201/03.shtml

http://www.asyura2.com/09/senkyo75/msg/462.html

「県民一人一人の意見を反映させる透明性のある県政をつくりたい」と述べた。



ウェブはバカと暇人のもの
ラベル:大仁田厚
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内科医「パッケージによる”ツムラ漢方”は本来の漢方治療とはいえない」

☆漢方の一律健康保険適応はおかしい・・・という意見まで抹殺される風潮 (内科開業医のお勉強日記)

http://intmed.exblog.jp/9332057/

http://www.asyura2.com/09/senkyo75/msg/447.html

個別に漢方診療した上で、”証”などで、処方医が自ら”さじ加減”で行うのが本来の漢方医療だが、ツムラ漢方は、何番と数字のついたパッケージ処方であり、漢方とは異なる医療形態を形成している。



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ラベル:漢方薬
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小池百合子・元防衛相が「民主党政権による天皇処刑」を警戒か

小池百合子
12:01 AM Nov 27th
http://twitter.com/ecoyuri/status/6083239039

http://www.asyura2.com/09/senkyo75/msg/394.html

中共の「日本解放工作要綱」にならえば、事業仕分けは日本弱体化の強力な手段。カタルシスを発散させながら、日本沈没を加速させる…。


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小池ゆりこのメールマガジン『 e-コムネット 』
No.046    2009/09/21日号

http://www.yuriko.or.jp/mail_m/090921.shtml

http://www.asyura2.com/09/senkyo75/msg/448.html

そもそも現代の日本人の国家意識がなぜ希薄なのか。
昭和47年に明らかになった中国共産党による秘密文書なるものがある。

1.基本戦略:我が党は日本解放の当面の基本戦略は、
日本が現在保有している国力の全てを、我が党の支配下に置き、
我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある。



2.解放工作組の任務:日本の平和解放は、下の3段階を経て達成する。



1 国交正常化(第1期工作の目標)=田中角栄

2 民主連合政府の形成(第二期工作の目標)=小沢一郎

3 日本人民民主共和国の樹立・天皇を戦犯の首魁として処刑(第三期工作の目標)



つまり、民主党による政権交代で
2の民主連合政府の形成という目標が達成されたことになる。



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《備考》

☆ウィキペディア「日本解放第二期工作要綱」の項→

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%A7%A3%E6%94%BE%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%9C%9F%E5%B7%A5%E4%BD%9C%E8%A6%81%E7%B6%B1

日本解放第二期工作要綱(にほんかいほうだいにきこうさくようこう)とは、中国共産党による対日工作活動が記されているとされる文書で、歴史家で右翼思想家の西内雅が1972年にアジア諸国を歴訪した際に入手したものであると國民新聞で伝えられたものである。

入手した経緯、年代については、西内が経営していた香港の日本語学校で1972年に偶然生徒から提供されたと書いている一方、別の場所ではアジア諸国を歴訪中の1973年に入手したとも述べている。


日本への工作の基本戦略として「日本が現在保有している国力の全てを、我が党(中国共産党)の支配下に置き、我が党の世界解放戦に奉仕せしめることにある。」とし、日本のマスコミ、政党・政治家、極右極左団体、在日華僑に至るまでの工作手段が記されている。

現在流布しているのは、西内本人が公表したと思われる、日本語に翻訳された文章である。全文は國民新聞HPで見ることができるが、中国語原文は載っていない。産経新聞記者の阿比留瑠比は「『日本解放第二期工作要綱』は本物なのでしょうか」と題して「本物だったら怖いし、偽文書であったなら、よくできている」と述べている。“第二期”があるわけだから“第一期―”も存在して当然だが、未だ発見されていない。

公表されている日本語文の内容については、当時日本共産党と犬猿の仲であった中国共産党が「民主連合政府」の成立を望むはずがない、あるいは、「極左」という表現を当時の中国共産党が使うはずがない、との批判もある。

中国共産党側からのコメントは存在しない。



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《おまけ》

☆ウィキペディア「田中上奏文」の項→

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87

田中上奏文(たなかじょうそうぶん)は、昭和初期に中国を中心として流布した怪文書・偽書である。田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorialである。

田中上奏文は、その記述によれば第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)、昭和天皇へ極秘に行った上奏文であり、中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服するための手順が記述されている。この文書は発表当初から偽書であることが指摘されており、現在の史学でも偽書であるとされている。

(略)

外務省亜細亜局長・有田八郎は、この文書に誤りを見出した。上奏が内大臣ではなく宮内大臣を経由している記述、九カ国条約に対する打開策協議に死んだはずの山縣有朋が参加しているという内容、田中義一の欧米訪問やフィリピンでの襲撃事件の記述などの誤りである。


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ウィキペディア「孝明天皇」の項より

http://bit.ly/6BZNw0


崩御に至るまでの経緯

慶應2年12月11日(1867年1月16日)、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、翌12日に発熱する。天皇の持病である痔を長年にわたって治療していた典薬寮の外科医・伊良子光順の日記によれば、孝明天皇が発熱した12日、天皇の執匙(日常の健康管理を行い、調薬を担当する主治医格)であった高階経由が拝診して投薬したが、翌日になっても病状が好転しなかった。14日、典医筆頭のひとりで、かつて執匙も務めていた山本隨が治療に参加、15日には伊良子光順も召集され、昼夜詰めきりでの拝診が行われた。

12月16日(1月21日)、山本隨・高階経由・伊良子光順と、高階経由の息子・高階経徳の計4名で改めて拝診した結果、天皇が痘瘡(天然痘)に罹患している可能性が浮上する。

執匙の高階経由は痘瘡の治療経験が乏しかったため、経験豊富な西尾兼道・久野恭(いずれも小児科医)を召集して拝診に参加させた結果、いよいよ痘瘡の疑いは強まり、17日に武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。

これ以後、天脈拝診(実際に天皇の体に触れて診察すること)の資格を持つ13人に、西尾兼道と久野恭の2人を加えた下記15人の典医たちにより、24時間体制での治療が始まった。

(略)

孝明天皇の公式の伝記である『孝明天皇紀』によれば、典医たちは天皇の病状を「御容態書」として定期的に発表していた。この「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。

しかし、前述の伊良子光順の日記における12月25日の条には、天皇が痰がひどく、藤木篤平と藤木静顕が体をさすり、伊良子光順が膏薬を貼り、他の医師たちも御所に昼夜詰めきりであったが、同日亥の刻(午後11時)過ぎに崩御された、と記されている。

中山忠能の日記にも、「御九穴より御脱血」などという娘の慶子から報じられた壮絶な天皇の病状が記されている。それでも天皇の喪は秘され、実際には命日となった25 日にも、福井登の名前で「益御機嫌能被成為候(ますますご機嫌がよくなられました)」という内容の「御容態書」が提出されている。天皇の崩御が公にされたのは29日になってからのことだった。



毒殺説

孝明天皇は前述の通り長年のあいだ悪性の痔(脱肛)に悩まされていたが、それ以外では至って壮健であり、前出の中山忠能日記にも「近年御風邪抔一向御用心モ不被為遊御壮健ニ被任趣存外之儀恐驚」(近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた)との感想が記されている。その天皇が数えで36歳の若さにしてあえなく崩御してしまったことから、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。

その後明治維新を過ぎて、世の中に皇国史観が形成されてゆくと、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明天皇の暗殺説を論ずる事は長く封印された。しかし1909年(明治42年)に伊藤博文を暗殺した安重根が伊藤の罪として孝明天皇毒殺をあげるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。また、1940年(昭和15年)7月、日本医史学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医兼医史学者・佐伯理一郎が「天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している。

そして、第二次世界大戦に日本が敗北し言論に対するタブーが霧散すると、俄然変死説が論壇をにぎわすようになる。まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、『孝明天皇は病死か毒殺か』『孝明天皇と中川宮』などの論文を発表したねずまさしである。ねずは、典医たちが発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も戦前の佐伯説と同様に、岩倉具視首謀・堀河紀子実行説を唱えた。

また、1975年(昭和50年)から1977年(同 52年)にかけ、前述の伊良子光順の拝診日記が、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝によって『滋賀県医師会報』に連載された。この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、天皇の死因を特定できるような内容が記されているわけでもなく、光順自身が天皇の死因について私見を述べているようなものでもない。だがこれを発表した伊良子光孝は、断定こそ避けているものの、ねずと同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した。

これらのほかにも、学界において毒殺説を唱える研究者は少なからずおり、1980年代の半ばまでは孝明天皇の死因について、これが多数説ともいうべき勢力を保っていた。



毒殺説に対する反論

しかし、1989年(平成元年)から1990年(同2年)にかけ、当時名城大学商学部教授であった原口清が、これを真っ向から覆す2つの論文を発表する。

『孝明天皇の死因について』『孝明天皇は暗殺されたのか』というタイトルが付けられたこれらの論文の中で原口は、

* 12月19日までは紫斑や痘疱が現れていく様子を比較的正確にスケッチしていた「御容態書」が、それ以降はなぜか抽象的表現をもって順調に回復しているかのような記載に変わってゆくこと

* 12月19日までの「御容態書」や、当時天皇の側近くにあった中山慶子の19日付け書簡に記された天皇の症状が、悪性の紫斑性痘瘡のそれと符合すること

* 中山慶子の12月23日付け書簡では、楽観的な内容の「御容態書」を発表する典医たちが、実は天皇が予断を許さない病状にあり、数日中が山場である旨を内々に慶子へ説明していること


などから、典医たちの「御容態書」の、特に20日以降に発表されたものの内容についてその信憑性を否定し、これまでの毒殺説の中において根拠とされていた「順調な回復の途上での急変」という構図は成立しないことを説明。その上で、孝明天皇は紫斑性痘瘡によって崩御したものだと断定的に結論付けた。

また原口は、諸史料の分析から岩倉が慶應2年12月の段階では「倒(討)幕」の意思を持っていなかったことを指摘し、岩倉が天皇暗殺を企てていたとする説についても否定した。



原口説登場後の学界

原口説が発表された後、毒殺説を唱える歴史学者の石井孝がこれに反論を加え、原口と石井の間で激しい論争が展開されたが、両者とも「物的証拠」がなく、決着を見るには至っていない。

しかし原口説の発表以降、毒殺説から病死説に転向する研究者が相次ぎ、多数説が後者へと逆転する大きなきっかけとなった。実はかく言う原口も、かつてはねず説を支持する毒殺論者であった。ともあれ、現在のところ原口説を全面的に覆すほどの新事実は発見されておらず、大掛かりな反証もほとんど試みられていない。これにより、原口説はほぼ通説としての地位を獲得しつつある。

ただ、前述の通り毒殺説・病死説ともに「状況証拠」による推定の域を出ることはできず、物理的に証明するものが存在しないのも事実である。物理的な証明とは後月輪東山陵の発掘、すなわち土葬された孝明天皇の遺骸を法医学的に鑑定するほかはないが、宮内庁による管理のもと、天皇陵への学術調査が認められていない現在では、このような調査が実現する可能性はきわめて低い。



その他諸説

毒殺以外の謀殺説では、天皇が宮中で何者かに刺殺あるいは斬殺されたとするものもみられ、「ある親王家の侍医が深夜に呼び出されて御所に上がり、腹部を刺され血まみれになった孝明天皇と思われる貴人を手当てしたが甲斐無く絶命した」という類の話が数種流布している。しかし、原因不明の難病ならばまだしも、刺された事が明らかな状況でわざわざ典医以外の医者を呼ぶなど、毒殺説と比較して不自然かつ荒唐無稽な内容が多く、歴史研究者の間でこれを採る者は皆無に等しい。



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