9:26 AM Aug 27th
http://twitter.com/officematsunaga/statuses/22222628984
民主党代表選挙を尻目に、さる自民党幹部「政権復活の準備をしておけ。菅が勝とうが、小沢が勝とうが、首班指名では大どんでん返しがある」。うちのボスなどは、9月14日よりも、その後の衆議院での首班指名のほうが、おもしろいかも・・などど言いふらしている。
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596 名前:無党派さん[age]
投稿日:2010/09/04(土) 20:40:24 ID:JqyUyntV [1/3]
で、自民党が狙ってる戦術の一つが、
小沢が勝ったら首班指名選挙のときに菅に入れると言うやり方。
これで民主党はまっぷたつに割れる(菅が乗ればね)
大連立に突っ込むこともできる
逆に菅が勝ったら、小沢に入れて一気に民主党分裂で政界再編に持って行くのもあり
どのみち衆参過半数or衆院2/3がない以上は、問責決議案でフィニッシュなんで、民主党政権は半年以内に終わるというわけ
自民党長老議員「代表選よりその後の方が面白いことになる」(首班指名選挙のことw)
どちらにせよ自民党は損をしないし、
連立工作に成功しない限り民主党政権は今年度でおしまいなんだよ
☆四十日抗争
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E6%97%A5%E6%8A%97%E4%BA%89
11月6日、首班指名選挙が行われるが、首相候補として同じ自民党から大平正芳と福田赳夫の2人が現れるという前代未聞の事態となった。
衆議院・1回目投票の結果
大平正芳 135票
福田赳夫 125票
飛鳥田一雄(社会党) 107票
竹入義勝(公明党) 58票
宮本顕治(共産党) 41票
佐々木良作(民社党) 36票
田英夫(社民連) 2票
この結果、誰も過半数の票を得ることができず、野党各党を退けた、自民党の上位2名による決選投票にまでもつれ込んだ。衆議院では大平138票・福田121票という投票結果となり、17票差という僅差で大平が指名された。
野党各党は、新自由クラブが1回目から大平に投票した他は決選投票では棄権に回り、また、複数の党が協力して決選投票に駒を進めようとする動きも見られなかった。大平派が公明党を、福田派が民社党を取り込む動きもあったが、両党とも棄権を選んでいる。
☆ハプニング解散
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E8%A7%A3%E6%95%A3
自民党の反主流派は不信任案を巡って同調するか否かで混乱し、灘尾弘吉衆議院議長は当初午後3時の予定だった本会議の開会を5時まで延長する。しかし、それでも反主流派は結論に達せず再延長を灘尾に申し込むが、灘尾はこれを国会を軽視するものと拒否し開会を宣言。 前年1979年の四十日抗争で大角(大平派と田中派)主流派に敗れ、自民党内で反主流派となっていた三木派や福田派、中川グル−プなどの議員69人は本会議を欠席した。これにより内閣不信任決議案は賛成243票・反対187票で56票差で可決となった。内閣不信任決議可決は1953年以来27年ぶり。
中曽根派は土壇場で反主流派を離脱し、本会議に出席して反対票を投じた。ほかに、福田派から13人、三木派から6人が本会議に出席している。反主流派ながら党幹部として不信任案反対の意向であった安倍晋太郎政調会長は、本会議場において森喜朗等若手議員に羽交い絞めにされるようにして会議途中に退席した。また福永健司(大平派)、小坂善太郎(無派閥)が病気入院のため欠席したが、元大平派の小坂に対しては一部から親三木・反大平だったことから欠席したのではないかとの憶測がなされた。
不信任可決を受けて大平内閣は閣議で衆議院解散を決定し、3日後の5月19日に灘尾議長が本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、解散詔書を朗読し、前回の選挙からわずか7ヶ月余で衆議院は解散となった。内閣不信任決議可決当日に衆議院を解散しなかったのはこの時だけである。内閣は6月22日の参院選と同時に衆院選の投票を実施することを決め、史上初の衆参同日選挙となった。野党は不信任案が可決されることを予測しておらず、自民党内の反主流派も戦略なく行き当たりばったりで本会議を欠席し、結果として解散に至ったため、「ハプニング解散」と呼ばれる。
☆二階堂擁立構想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%9A%8E%E5%A0%82%E6%93%81%E7%AB%8B%E6%A7%8B%E6%83%B3
1984年11月におこなわれる自民党総裁選に対し、中曽根は高い国民支持率を背景に早くから再選への意欲を示していた。
一方、中曽根内閣はその成立当初より、田中派の影響を色濃く受けて、「直角内閣」「田中曽根内閣」などと呼ばれていたため、鈴木・福田・河本派ら非主流派はこれに不満を持っていた。さらにこの年、田中派の二階堂進が党副総裁に起用されたことで、非主流派の不満はますます高まりを見せ、宮沢喜一(鈴木派)・安倍晋太郎(福田派)・河本敏夫(河本派)らが再選阻止の構えを見せた。
しかし、党内最大派閥を率いる田中角栄元首相が中曽根支持の方向にまわり、一般には中曽根首相の再選は堅いと見られていた。
そんな中、1984年10月26日、鈴木は田中邸を訪れ、次期総裁公選で二階堂を擁立することを提案した。 田中派は党内最大派閥でありながら田中自身が政権回復の望みを捨てなかったため、竹下登らニューリーダーを擁しながら、田中内閣以後は総裁候補を出せない派閥であった。こうした不満を逆手に、鈴木は二階堂を総裁として田中と中曽根に頚木を打つ「王手飛車取り」を狙った。
鈴木の狙いは、田中と中曽根の間を分断し、二階堂暫定政権の後に自派の宮沢を総裁にすることにあったと言われ、また自身が余力を残して政権を譲ったという認識の中で、中曽根の「私が登板した時の日米関係は9回2アウト満塁だった」などとあたかも前任者が無能であったかのような鈴木の感情を逆なでする度々の発言や、田中・中曽根両派主導の党運営に不満を持っていた。これに福田や三木武夫元首相らも同調した。さらに、本会議の首班指名において、野党の公明党・竹入義勝委員長、民社党・佐々木良作委員長との連携・連立を視野に入れた工作もあり、四面楚歌の中で中曽根再選は危ういかと思われた。
ところがこの企ては、
1. 「自派から自分以外の総裁候補を許さない」田中自身の強い反対
2. 竹下の後見人を任じる金丸信ら、田中派幹部が反対に回ったこと
3. 名実ともに、中曽根の対抗馬となり得た河本が竹下・金丸に同調して三木を抑えたこと
4. 鈴木・福田両派内でも慎重論が大勢を占めたこと
などにより挫折した。さらに終盤でこの工作が報道され、国民周知の事実となった。
自民党両院議員総会に先立って10月28日に行われた最高顧問会議では、福田・二階堂らから中曽根批判が噴出、最後に中曽根が党風刷新・党内融和を約束し、ようやく了承されるという一幕もあったが、結局、中曽根が話し合いで自民党総裁に再選され、11月1日に第二次中曽根改造内閣が発足した。
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