日本サイドは以下のような主張に対して、英文および中国文できちんと反論して、国際世論に説明することが望ましい。国際世論を念頭に置かない外交は無謀。
なお久米島については
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E5%B3%B6が簡潔。
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☆釣魚島発見、中国人は日本人より76年早かった
(人民日報。6月21日)
http://j.people.com.cn/94475/7033277.html日本が釣魚島に対する主権を主張する理由のひとつに、日本人・古賀辰四郎が1884年に同島を「発見」したことが挙げられている。しかし沈復が釣魚島を発見したのは1808年で、日本人より76年早かった。
(略)
沈復のこの記述は、解決しがたい論争に確固たる証明を提供している。文中では琉球国西部領域が姑米山(現在の沖縄県久米島)から始まり、黒水溝は中国(清朝廷)と琉球国の分界線で、釣魚島が中国領域内にあることをはっきりと、明確に指摘している。
☆釣魚島は古来、中国固有の領土
(人民日報。3月10日)
http://j.people.com.cn/94474/6924884.html中国側の立場は。
釣魚島とその付属の島は古来、中国固有の領土であり、中国はこれに対して論争の余地のない主権を有している。
《また、1996年10月18日付「人民日報」には以下の記載が》
http://japanese.china.org.cn/jp/archive/dydzt/2009-02/04/content_17223352.htm中国は明の太祖の時代から琉球国へ冊封使の派遣を開始した。1534年の明代第11次冊封使・陳侃の『使琉球録』には、彼らが琉球国の使者と共に琉球へ向かう様子が次のように記されている。
十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり揺れなかった。平嘉山、釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一昼夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球に属するもので、夷の人は舟上で歌い踊り、故郷への到着を喜んでいる。(訳注)」(1)古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖縄県久米島を指す。夷人は、当時船上にいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踊る」という、帰還の喜びがありありと描写されており、当時の琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自国に帰ってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは元来琉球国には属さないことになる。
《備考〜「尖閣」列島−釣魚諸島の史的解明(井上清)》
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue0.html ところが清朝の第二回目の冊封使汪楫(おうしゅう)は、一六八三年に入琉するが、その使録『使琉球雑録』巻五には、赤嶼と久米島の間の海上で、海難よけの祭りをする記事がある。その中に、ここは「中外ノ界ナリ」、中国と外国との境界だ、と次のように明記している。
「二十四日(一六八三年六月)、天明ニ及ビ山ヲ見レバ則チ彭佳山也……辰刻(たつのこく)彭佳山ヲ過ギ酉(とり)刻釣魚嶼ヲ遂過ス。……二十五日山ヲ見ル、マサニ先ハ黄尾後ハ赤尾ナルベキニ、何(いくばく)モ無ク赤嶼ニ遂至ス、未ダ黄尾嶼ヲ見ザルナリ。薄暮、郊(或ハ溝ニ作ル)ヲ過グ。風涛大ニオコル。生猪羊各一ヲ投ジ、五斗米ノ粥ヲソソギ、紙船ヲ焚キ、鉦ヲ鳴ラシ鼓ヲ撃チ、諸軍皆甲シ、刃ヲ露ハシ、(よろい・かぶとをつけ、刀を抜いて)舷(ふなばた)ニ伏シ、敵ヲ禦(ふせ)グノ情(さま)ヲナス。之ヲ久シウシテ始メテヤム。」
そこで汪楫が船長か誰かに質問した。「問フ、郊ノ義ハ何ニ取レルヤ。(「郊」とはどういう意味ですか)と。すると相手が答えた。
「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。
汪楫は重ねて問うた。
「界ハ何ニ於テ辯ズルヤ。」(その界はどうして見分けるのですか)。相手は答えた。
「曰ク懸揣スルノミ。(推量するだけです)。然レドモ頃者(ただいま)ハアタカモ其ノ所ニ当リ、臆(おく)度(でたらめの当てずっぽう)ニ非ルナリ。」
右の文には少々注釈が必要であろう。釣魚諸島は、中国大陸棚が東海にはり出したその南のふちに、ほぼ東西につらなっている。列島の北側は水深二百メートル以下の青い海である。列島の南側をすこし南へ行くと、にわかに水深千数百から二千メートル以上の海溝になり、そこを黒潮が西から東へ流れている。とくに赤尾嶼付近はそのすぐ南側が深海溝になっている。こういう所では、とくに海が荒れる。またここでは、浅海の青い色と深海の黒潮との、海の色の対照もあざやかである。
この海の色の対照は、一六〇六年の冊封使夏子楊(かしよう)の『使琉球録』にも注目されており、前の使録の補遺(私は見ていない−−井上)に『蒼水ヨリ黒水ニ入ル』とあるのは、まさにその通りだ」とある。そして清朝の初めには、このあたりが「溝」あるいは「郊」、または「黒溝」、「黒水溝」などとよばれ、冊封使の船がここを通過するときには、豚と羊のいけにえをささげ、海難よけの祭りをする慣例ができていたようである。過溝祭のことは、汪楫使録のほかに、一七五六年入琉の周煌の『琉球国志略』、一八〇〇年入琉の李鼎元(りていげん)の『使琉球録』および一八〇八年入琉の斉鯤(さいこん)の『続琉球国志略』に見えている。
これらの中で、汪楫の使記は、過溝祭をもっともくわしくのべているばかりでなく、溝を郊と書き、そこはたんに海の難所というだけでなく、前に引用した通り、「中外ノ界ナリ」と明記している点で、もっとも重要である。しかもこの言葉が、ここをはじめて通過した汪楫に、船長か誰かが教えたものであることは、こういう認識が、中国人航海家の一般の認識になっていたことを思わせる。
さらに周煌は『琉球国志略』巻十六「志余」で、従来の使録について、そのとくに興味ある、または彼が重視した記述を再確認しているが、その中で彼は、汪楫の記述を要約し、「溝ノ義ヲ問フ、曰ク中外ノ界ナリ」という。すなわち彼は汪楫とともに、赤尾嶼と久米島の間が「中外ノ界」であると確認し、赤尾嶼以西が中国領であることを、文字の上でも明記している。なお『琉球国志略』は、すぐ後にのべる『中山傳信録』とならんで、中国人のみならず琉球人・日本人にも広く読まれた本で、句読、返り点を施した日本版も一八三一年(天保二年)に出ている。