2010年08月17日

牛島中将(沖縄戦司令官)の孫が平良識子・那覇市議を訪問

平良識子
http://twitter.com/satokukku/statuses/21327445155
牛島貞満さんが事務所にいらしてくださった。牛島さんは、沖縄戦における第32軍司令官牛島満の孫である。彼は小学校教員として、東京あるいは沖縄で、平和教育を続けている。私は議会において、沖縄を運命づけた第32軍司令部壕の文化財指定、保存、平和活用をするべく取り組み続けている。



☆牛島満
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E5%B3%B6%E6%BA%80

また、牛島個人としては、無辜の住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、着任してすぐ県知事と協議している。当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという。

また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体となった「玉砕」を防ごうとしたと見られる。これは一億玉砕を唱える当時の軍部の方針に反するものであった。八原高級参謀も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島の計画を支持した。(一方で、北部にある密林地帯、同地域で「やんばる」と呼ばれるその一帯には食糧の備蓄はなく、また長期間の避難では栄養失調、最悪で餓死者が出るということは容易に想像が出来たのではないか、とする意見もある。実際「やんばる」に逃れた住民の死因の大半は栄養失調や餓死であった。ただ、牛島としてはいざという場合に、軍用糧食を一般住民に配給する覚悟を決めており、側近にも漏らしている。)。

また、牛島自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島は暇があるたびに作業現場を視察し、中学生や住民にまじって壕堀りの手伝いをした。県民の献身に感動した牛島は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示している。

しかし、大本営が沖縄作戦を本土作戦のための時間稼ぎと考えており、牛島もこの方針に従い指揮していたことや、南部撤退の過程で県民に多数の犠牲を出したことが批判される。首里から撤収中、牛島は民間人の遺体を見るたびに合掌し、野ざらしになった死骸、親を失って泣き叫ぶ幼児、爆撃で黒焦げた親子の遺体を見るにつけ、「なぜ、このような惨状を事前に見通せず、喜屋武半島撤退計画に安易な決裁を与えたのか。軍司令官としての沖縄県民に対する責任を、いかにして償えば良いか」と苦悩し、首里撤退の誤りを認めている。

牛島は5月、非戦闘員である住民を戦闘に巻き込まぬよう沖縄県庁幹部とも協議し、知念半島に避難させるよう命じている。そのため、6月上旬には、米軍に軍使を送るとともに、知念半島の非武装化を提案した。米軍も一旦それに同意したが、米軍の軍使が日本軍の狙撃兵によって殺されたため、また住民への命令不徹底により計画は頓挫した。しかし、米公刊戦史によれば、知念半島において住民1万人を保護したという記録が残っている。

posted by はなゆー at 13:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事(国内) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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