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☆Look Out for the Diaoyu Islands
(9月10日のニューヨークタイムズ)
http://kristof.blogs.nytimes.com/2010/09/10/look-out-for-the-diaoyu-islands/
http://www.asyura2.com/09/china02/msg/484.html
So which country has a better claim to the islands? My feeling is that it’s China, although the answer isn’t clearcut. Chinese navigational records show the islands as Chinese for many centuries, and a 1783 Japanese map shows them as Chinese as well. Japan purported to “discover” the islands only in 1884 and annexed them only in 1895 when it also grabbed Taiwan. (You can also make a case that they are terra nullis, belonging to no nation.)
《備考》
林子平「三国通覧図説」付図「琉球三省并三十六島之図」、釣魚諸島位置図、釣魚諸島略図
http://www.mahoroba.ne.jp/~tatsumi/dinoue16.html
http://www.asyura2.com/0401/senkyo2/msg/866.html
琉球人が釣魚列島を知る機会は、冊封使の来路、または琉球王の使節として中国に渡った者に従って帰路で見る以外は稀だったようである。だから一般の漁民などはほとんど知らず、明治に至って初めて尖閣列島という日本名が付けられた訳である。
日本人の著した著書に釣魚島嶼が最初に出てくるのは林子平の「三国通覧図説」(1785年)である。その琉球分のところに釣魚、黄尾、赤尾の釣魚島嶼の名前が出てくる。残念ながら日本名の尖閣ではなくて(日本名の尖閣島が付いたのが明治33年だからあたりまえだが…)、しかも琉球36島とは明らかに区別して書かれている。また、この「三国通覧図説」は清の康煕58年(1719年)の冊封使徐葆光の「中山傳信録」によるものであり、この「中山傳信録」自体がまた琉球の大学者程順則の著「指南広義」(1708年)によっている。そして、琉球の大学者程順則はこの「指南広義」の中で、「琉球36島」と言って、その範囲を西は久米島、西南は八重山群島から以内の島々を上げるだけで、釣魚、黄尾、赤尾等は上げず、久米島を琉球の西南界だと言っている。琉球人自身にも釣魚島は中国領であることが意識されていたようである。
http://www.asyura2.com/0401/senkyo2/msg/872.html
日本人よりも更に生活の根拠が近かった琉球人はこれらの島嶼をどう見ていただろうか。釣魚諸島の名が見える琉球人の書物は向象賢の「琉球国中山世鑑」と程順則の「指南広義」の二種しか現在までに知られていない。この両書とも島名を中国語で記載し、中国領と見なしている。
台湾や釣魚台列島と、西表島から沖縄本土に至る南西諸島の間には、2000mから4000mに及ぶ深い海溝が横たわっている。昔使った地図帳でもよいから引っ張りだして見てみれば直ぐに分かる。ここは対馬海流と日本海流(黒潮)の源でもある。早い潮流もあり、海が深いせいか波も荒い。船旅をしたことのある人なら分かるはずだ。昔の冊封使達はこの赤尾嶼(中国側)と久米島(琉球側)の間に横たわるこの海溝の辺りを、「溝」もしくは「郊」と呼び恐れた。そしてこの海域に入る時には、羊とか豚とかを生贄に捧げ、神に航海の無事を祈る過溝祭を行ったのである。
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コレ迄、コノ辺りで毎年漁をし捲くっていた!と主張する中国漁船はソレはソレで事実を述べてんです。
国境線は双方が合意しない限り画定しないけど、今年からイキナリ日本の海上保安庁が強硬手段に出、音響兵器でソマリア海賊に大音響で警告するみたいに、実質漁にも差し支える実力行使に出たのは今年が初なんですよ。
音響兵器もアメリカから買った最近のモノで使いこなし始めたのも極最近だし(今に地上のデモ隊に使用しないか戦々恐々!)このタイミングは明らかに米$崩壊前提の思い遣り予算増大(軍拡)と普天間温存若しくは辺野古大増強を狙ってるでしょ。
ま、そんな米国軍でさえ実践は想定してないんだけど、お調子者の日本右翼は脳天お花畑ですけど(まあソレは何時もの事だから仕方無い…)。
http://blog.goo.ne.jp/aiu_kikaku/e/0ddba752361d8ddf4f3377f8bdb380a7
ニューヨークタイムズ記事そのモノは、両論併記の域から出ては居りません。
でしょ?悲観的な、はなゆーさん。
どうぞ、クールダウン(又はウォームアップ?)なさって下さい。
アメポチ前原わんわんお
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2010/09/post_15ac.html#more
今回の尖閣問題は、やっぱり菅ネオコン民主党の仕込みでした。
中国も上海閥が政権を乗っ取ているので、上海市場暴落・不動産バブルの本格的な暴落を直前にして、中国人民の不満を外へ逸らしたいとして、戦争演出に躍起となっている。
琉球本土から見た場合ではいろいろ書かれている通りなのでしょう。黒潮の関係で中国からの帰路でしか見ることは難しかったのかもしれません。
しかし八重山地方の人から見れば黒潮に乗って尖閣に行くことは台湾同様に可能ではないでしょうか?
さらに台湾は黒潮に逆らう形ですが、八重山のひとは黒潮に逆らわず宮古島の方から迂回する形で戻れるのではないでしょうか?
そして中国人には黒潮を渡る技術がなくても琉球人には黒潮を渡る技術はあったのは歴史書から言うまでもありません。
さてイーグンクバシマとはいつの頃から琉球人は使うようになったのでしょうか?
1630年代以前に琉球人は黒潮の先にある大東諸島のことを「ウファガリジマ」と言われていた。
このことから同じ頃には同じく黒潮の先にある尖閣をイーグンクバシマと言われていたのではないだろうか?