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1929年(昭和4年)8月、浜口雄幸内閣の外相幣原喜重郎に乞われて、駐支那公使に就任。張作霖爆殺事件後に悪化した対支外交の打開を期待されていたが、一時帰国中の同年11月29日、箱根宮ノ下の富士屋ホテルにおいて変死体で発見され、自殺とされた。
1929年(昭和4年)11月29日、佐分利は箱根宮ノ下富士屋ホテルにおいて死体で発見された。死因はピストルで頭部を打ち抜いたことによる即死だった。警察当局は、佐分利が右手にピストルを握っており、外部からの侵入者の形跡もないため、自殺と断定した。佐分利は大変な愛妻家として知られていたが、1925年(大正14年)に妻を亡くしており、亡妻を慕うあまりの後追い自殺であろうと推測された。また、対支外交の将来を悲観しての自殺とも囁かれた。しかし遺族からは自殺には疑問が呈されていた。
死体は右手にピストルを握っていたが、佐分利は左利きであった。
遺書もなかった。
また、佐分利は日頃から護身用に小型のピストルを所持していたが、使用された拳銃は銃身六インチもある出所不明の三十八口径大型コルト八連発拳銃であり、ホルスターも見つからなかった。
また、身綺麗な外交官に相応しくない寝間着姿での自殺は不自然であり、翌日の行動予定もあった。
犯人は大陸浪人説、中国国民党工作員説などがあるが真相は不明である。
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ラベル:佐分利貞男