☆小沢氏の政倫審出席問題、民主が結論先送り (読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101221-00000083-yom-pol
http://www.asyura2.com/10/senkyo102/msg/609.html
党内では、自民党が議決に応じない方針を固めたことで議決の実現性が微妙になったとして、政倫審ではなく、証人喚問の受け入れもやむなしとする意見も出ている。
(略)
一方、別の出席者からは、野党が要求する小沢氏の証人喚問に応じるべきだとの発言も出た。
(略)
首相は、小沢氏の強制起訴時に離党勧告などの処分を行うことも視野に入れており、小沢氏に近い議員は反発を強めている。
《おまけ》
☆奥州藤原氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F
秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い文治元年(1185年)、源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。
秀衡は頼朝からの引渡要求を拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡す事で頼朝との和平を模索した。
しかし、関東の後背に独自の政権があることを恐れた源頼朝は同年7月、義経を長らくかくまっていた事を罪として奥州に出兵。贄柵(秋田県鹿角)において家臣の造反により藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。
☆太田道灌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%81%93%E7%81%8C
道灌の活躍によって主家扇谷家の勢力は大きく増した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。
『永享記』は道灌が人心の離れた山内家に対して謀反を企てたと記している。また、扇谷家中が江戸・河越両城の補修を怪しみ定正に讒言したともある。これらの中傷に対して道灌は一切弁明しなかったが、『太田道灌状』で道灌は主家の冷遇に対する不満を吐露している。また、万が一に備えて嫡男の資康を和議の人質を名目として足利成氏に預けている。
文明18年7月26日(1486年8月25日)定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、道灌はここで暗殺された。享年55。
『太田資武状』によると、道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である。
後に『上杉定正消息』で定正は道灌が家政を独占したために家中に不満が起こっており、また、道灌が顕定に謀反を企てたために討ち果たしたと述べている。
道灌暗殺の原因については、定正が力が強くなりすぎた道灌が自身にとって代わりかねない下剋上を恐れたとも、扇谷家の力を弱めるための顕定の画策に定正が乗ってしまったとも言われる。また、雑説だが江戸時代の『岩槻巷談』に道灌暗殺は北条早雲の陰謀であるとの話が残っている。
道灌暗殺により、道灌の子の資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人、地侍の多くが山内家へ走った。定正はたちまち苦境に陥ることになった。
翌長享元年(1487年)顕定と定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げる。
やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭。早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになる。
☆韓信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BF%A1
紀元前201年、旧知であった楚の将軍・鍾離昧を匿ったことで韓信は劉邦の不快を買い、また異例の大出世に嫉妬した者が「韓信に謀反の疑いあり」と讒言したため、これに弁明するため鍾離昧に自害を促した。鍾離昧は「漢王が私を血眼に探すのは私が恐ろしいからです。次は貴方の番ですぞ」と言い残し、自ら首を撥ねた。そしてその首を持参して謁見したが、謀反の疑いありと捕縛された。韓信は「狡兎死して良狗煮られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ。天下が定まったので私もまた煮られるのか」と范蠡の言葉を引いた。
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今年に入ってからも、自民党の異常な抵抗振りにも拘わらず、強行採決するなと言った。
先々が見えてる訳じゃ無い。
コノ件は只単に日本をヒタスラ空転させる米国製スキームで、果ては浮き世だ温泉だの自称する高等遊民から経団連迄、米国に奉仕して居るだけです。
控え目に言って、とても気前のヨい事ですね!
自虐的だし。