2011年01月06日

「菅直人首相=ダラディエ元フランス首相(左翼に発砲した元左翼)」説

☆市民運動家だった頃の政治理念はどこへ 同志の不信を買う菅首相はいつまで政権維持できるか (田中秀征・政権ウォッチ)

http://diamond.jp/articles/-/10656?page=2

私は菅首相を見ていると、第二次大戦直前のフランスのダラディエ首相を思い出す。ミュンヘン会談でヒトラーと妥協して大戦に道を開いた人だ。

ダラディエは、左翼政党から登場し、大臣、首相となるにつれて右旋回を続けた。そしてついには労働運動を弾圧したり、国民に向かって発砲するに至った。

しかし、ダラディエは、最終的には左翼はもちろん保守勢力からも信頼されなくなったのである。保守勢力からすれば、かつての同志であった労働者に銃を向けるのであれば、いつかは自分たちに銃を向けるのではないかと疑うのも当然だ。



☆エドゥアール・ダラディエ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%A9%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8

1919年、急進社会党の党員としてヴォクリューズ県選出の代議院(下院)議員となる。彼はその風貌から「ヴォクリューズの雄牛」と呼ばれ人気を集めた。1924年にエリオ内閣に植民地相として入閣して以来、急進社会党の参加する連立内閣で7度閣僚として入閣している。

1933年にはルブラン大統領の元ではじめて首相に就任した。内閣は9ヶ月で倒れたが、この時期のフランスの首相としては長い部類に入る。

1934年にスタヴィスキー事件による混乱でショータン内閣が倒れると、後任の首相に選ばれた。しかし混乱の収拾に失敗し、大規模な反政府デモで死者が発生した責任を取り、わずか10日で辞職した。

1936年には急進社会党党首となり、ブルムの人民戦線内閣に参加した。しかし急進社会党は共産党と対立しており、1937年の人民戦線内閣の崩壊を招いた。ショータン、ブルムの短期間の内閣が続いた後、1938年、3度目の首相に就任した。


1938年9月24日、ドイツがチェコスロバキアにズデーテン地方の割譲を要求すると、ダラディエはチェコスロバキアとの相互援助条約に基づき軍の総動員令を発令した。再度の世界大戦が懸念される中、29日にミュンヘンに英仏独伊4ヶ国の首脳が集まりミュンヘン会談が開かれた。

会議では対独宥和政策に基いてイギリスと協調し、チェコスロバキアにズデーテン地方等の割譲を要求するミュンヘン協定に調印した。各国の動員は解除され、帰国したダラディエは世界大戦を回避した首相として国民に熱狂的に迎えられた。しかしこの時、補佐官のサン=ジョン・ペルスに対して「この連中は正気ではない」と語ったという。

イギリスのネヴィル・チェンバレン首相と同じく、ドイツに対する弱腰外交を展開したと見られがちだが、彼自身はドイツへの不信から宥和政策に懐疑的であった。しかしエドゥアールは国防相経験者でもあったためフランス軍がドイツ軍と戦える状態でなかったことを認識しており、軍の体勢が整うまでの猶予期間を得るために、やむを得ず宥和政策を遂行していたのである。



☆スタヴィスキー事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

新首相に就任したダラディエは2月3日、左派勢力から「真相の隠蔽を図っているのではないか」との疑念を持たれていた警視総監シアップを解任し、当時フランスの保護領であったモロッコへ左遷した。しかし、この措置は右派閣僚の反発を招き、内閣は機能不全に陥った。

国粋主義団体もダラディエを追及し、2月6日の晩、大衆を巻き込んだ大規模な反政府デモを起こした。この日は、ダラディエ内閣の信任投票が行われることになっていたが、上述のアクション・フランセーズ、クロア・ド・フーをはじめ、フランス連帯団 (Solidarité Française) 、フランシスム (Francisme) 、愛国青年同盟 (Jeunesses Patriotes) などの有力団体は、国会周辺に集まり声高に政府批判を展開。その一部は議場にまで雪崩れ込み、大混乱を起こした。

この暴動で16名の死者と2,300余名の負傷者(人数は資料によって若干異なる)を出したため、ダラディエ内閣は議会からの信任を得たにも拘らず、責任を取って2月7日に総辞職した。

2月9日、前大統領ガストン・ドゥーメルグ (Gaston Doumergue) が、5人もの首相経験者を閣僚に迎えた挙国一致に近い体制の新内閣を組織して、事態の収拾を図った。しかし同内閣は右派寄りの陣容であった(半ファシズムとまで呼ぶ研究者もいる)ため、今度は左派勢力が反政府運動を展開した。共産党はドゥーメルグの組閣当日に、パリで内閣に反対する一大示威運動を行い、これを阻止しようとした警官隊と激しく衝突。流血の惨事を引き起こした。

2月12日には、社会党や共産党、労働総同盟らの主導により、約450万人の労働者が24時間の全国的ゼネストを決行、また3月5日には「反ファシズム知識人監視委員会」が結成されるなど、左派勢力の巻き返しが図られた。これを契機に共産党と社会党は接近し、のちの人民戦線の成立に繋がった。

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posted by はなゆー at 18:31| Comment(0) | TrackBack(0) | ムンクの叫び | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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