http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110108-00000005-agara-l30
http://www.asyura2.com/10/senkyo103/msg/931.html
民主党元代表の小沢一郎氏が8日、飛行機で紀南入りし、田辺市本宮町の熊野本宮大社を参拝した。
(略)
白浜町の南紀白浜空港に到着した小沢氏は本宮大社に直行。九鬼家隆宮司の案内で境内を巡り本殿で祈願した。旧社地大斎原も訪れた。
☆神武天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命と三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。
東征がはかばかしくないことを憂えた天照大御神は武甕槌神と相談して、霊剣(布都御魂)を熊野の住民の高倉下に授け、高倉下はこの剣を磐余彦に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。そこで、天照大御神は八咫烏を送り教導となした。八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。
☆神武東征
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81
浪速国の白肩津(現 東大阪市附近。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、ナガスネヒコが軍勢を起こして待ち構えていた。ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。
カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。
(略)
このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。
☆熊野本宮大社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E5%A4%A7%E7%A4%BE
現在の社地は山の上にあるが、1889年(明治22年)の大洪水で流されるまで、社地は熊野川の中州にあった。社地は創建以来その中州にあったと思われ、明治の洪水が起こるまでは社殿が流されることはなかったが、明治以後、山林の伐採が急激に行われたため、山林の保水力が失われ、大規模な洪水を引き起こしたと考えられている。現在、旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い大鳥居(高さ33.9m、横42m、鉄筋コンクリート造、平成12年完成)が建っている。なお、その時の大洪水で被災した上流の十津川村集落の住民の一部が移住した先で開墾したのが北海道の新十津川村である。
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社民党も党を挙げ、寺社巡りで願を掛け巡るのも良いカモ‥
無論、選挙の話やないやろけどな。
もちろん、清浄な良い気のある所もあるが、人・生物が横死した場所を祭っている所もある。
また、生活苦や死病を抱えていた先祖、参拝客の情報もたくさん集まっている。
その影響を受けて病気になったり災難にあったりすることもあるので
特に健康に不安のある人は避けた方が無難とか。
やむをえない場合は、形式的に参拝し、感謝の意を表すのがよい。
必死ですがると、外から困った情報が入りやすい。
思い当たる経験がある。
熊野のような場所なら、天候、体調のいい時にはまあ大丈夫かと思うが。
あまり度々神仏にすがると、そこに入り込む邪気がある、ということに気をつけてほしいにゃ。