http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110114-00000031-sph-soci
http://www.asyura2.com/11/senkyo104/msg/507.html
「親小沢」の不満が、党大会でも爆発した。菅首相や岡田幹事長が党内の結束を呼びかけ、4月の統一地方選勝利を目指す「2011年活動方針」の採択に移る時だった。
「異議あり!」「おかしいよ!」「独裁だ!」。国会議員の席で次々と叫び声が上がった。森ゆうこ参院議員(54)は、配付資料を振り上げて、執行部が並ぶステージ前に突進。「与謝野氏を入れて大増税路線にするんですか!」と迫った。ほかにも黒田雄(51)、石井章(53)両衆院議員らも立ちあがり、不満をぶつけた。
これには「うるさい」「座れよ」などのヤジが。進行役が「ご質問、ご議論いただく場は設けていない」と説明し、会場は騒然としたまま「地方自治体議員表彰」が始まった。党員、サポーターを含む2200人が会場を埋めたが、この様子に「ばからしい」「何が挙党一致だ」と、席を立って帰る人が続出した。
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小菅信子(山梨学院大学法学部教授)
http://twitter.com/#!/nobuko_kosuge/status/25733529287528448
この数日、執行部を批判する民主党議員たちの工夫のなさに、歯がゆさを感じます。執行部が強権的であることは、すでにわかりきっていたことです。とはいえ、銃口をつきつけられて「言論統制」されているわけではないのです。議員には、議員にしかできないことがあります。
ibe kouji(花巻市)
http://twitter.com/#!/kibeyan/status/25753927383252992
同意します。代表選で小沢氏に票を投じた議員200余名が、森議員の異議あり!の時に、無言でも起立すれば、流れは変わったのにと。マスコミも無視はできなかっでしょう。
ibe kouji(花巻市)
http://twitter.com/#!/kibeyan/status/25777999253082114
親小沢議員には、一致団結して、ああすればこうしよう策を出す司令塔がないのでしょうか? 不甲斐ないですね。
☆陳平
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%B9%B3
まもなく劉邦は項羽に追われ、滎陽城に籠城することとなった。不利な状況の中陳平は、項羽が疑り深い性格であるため部下との離間が容易に出来ると劉邦に進言し、劉邦もその実行に四万金もの大金を「使途を一々報告する必要はない」と与えた。そして范増・鍾離昧・竜且・周殷と言った項羽の重臣たちが項羽から自立しようとしているとの噂を項羽の耳に流し込んだ。項羽はそれを信じて疑うようになり、項羽軍に大きなほころびが生じることとなった。 特に范増へは項羽配下随一の智謀の才であったためか念を入れ、項羽へ和平の申し入れを行い、使者を送らせ噂の真偽を確かめるよう仕向けた。そして使者を范増の使わした使者として、豪華な宴席に招き、范増と仲が良いかのように振舞った。しかし使者が項羽の使者であると聞くと、粗末な席に変えさせ、劉邦に「我が方は勝てるが、お情けで和平してもよい」と言わんばかりの横柄な態度で接させた。このため范増は項羽に亜父と称され厚く信頼されていたにも係わらず失脚し、故郷に帰る途中で憤死した。
(略)
紀元前190年に曹参が死んだ後で左丞相(副首相格)に任じられて、その後の呂雉の専権時代には面従腹背の姿勢を保ち、呂雉と対立して失脚した王陵の後を受けて右丞相(正宰相格)となった。しかし呂氏が中央の兵権を完全に握っているなど右丞相には権力がなく、実質的に名のみの役職であった。陳平も酒と女に溺れ骨抜きになったふりをし、呂雉や夫(樊噲)を捕らえられた恨みを持つ呂須から警戒心を持たれないようにして粛清の嵐を避け、反攻の機を伏して待った。
紀元前180年に呂雉の死を機として、陸賈の助言により陳平は宴会に見せかけ、宮廷内で大尉・周勃を始めとする反呂氏勢力や信頼できる人物を集め、密かに人脈を築き、打ち合わせを重ねていった。監視を徹底していた呂氏も、酒好き女好きの右丞相が行う宴会なので、警戒をしなかった。そして斉王の蜂起と、その討伐に出した灌嬰の寝返りなどに動揺する宮中において策略を用い、周勃などとともに呂雉の甥である呂禄の不安を煽らせるため、呂禄の友人である酈奇の親酈商に迫り、酈奇から「いつまでも中央に居るので、野心があるのではないかと疑われ天下が騒がしくなっています。領地は諸侯も重臣も認めており、帰国すれば疑いも晴れ安泰です」と吹き込ませた。呂禄はそれに従い兵権を返上し、周勃が兵権を取り戻す。そしてその兵で別の甥・呂産の帝位簒奪クーデターを鎮圧。これを口実として呂氏を皆殺しにする逆クーデターを実行し、劉邦の子である代王劉恒(文帝)を立てた。その後まもなく引退したが、周勃と文帝に乞われて再び右丞相となった。
なおクーデター鎮圧の際に、兵権は握ったものの兵士が従うか不明だったため、「劉氏に加担するものは左袒(衣の左の肩を脱ぐ)、呂氏に加担するものは右袒(衣の右の肩を脱ぐ)するよう」との触れを出し、兵士は全て左の肩を脱いだことが、義により味方することを意味する「左袒する」の故事成語となった。
☆本多正信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E4%BF%A1
更にこの頃、本願寺では前法主教如と法主准如の兄弟が対立していたため、これを利用して、本願寺の分裂を促すことを家康に献策。かつて自らも身を投じていた本願寺の勢力を弱めさせた。
(略)
松永久秀は正信のことを、「徳川の侍を見ることは少なくないが、多くは武勇一辺倒の輩。しかしひとり正信は剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非常の器である」と評したという(『藩翰譜』)。
☆岩倉具視
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96
年少の天皇、慶喜の言いなりの朝廷首脳部、徳川家の所領を背景に引き続き実質的権力を握ることになるであろう慶喜から実権を奪うため、岩倉は薩摩の大久保利通、土佐の後藤象二郎、公卿の中御門経之・中山忠能・正親町三条実愛らとともに慶喜に辞官納地をさせる計画に参加。
慶応3年(1867年)12月8日から翌9日にかけて中川宮・二条斉敬ら朝廷首脳部、有栖川宮熾仁親王・山階宮晃親王・仁和寺宮嘉彰親王ら皇族、島津茂久・山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝・浅野茂勲ら大名を交えた朝議がおこなわれた(事前に岩倉たちの計画をつかんでいた慶喜は病と称して欠席)。
12月9日(1868年1月3日)に入ってから岩倉らが参内し、新政府人事と慶喜の処分を求める王政復古の大号令案を奏上した。
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王道よりも奇策が「3度のメシ」よりも。
だから、常に優位を捨て去る自虐衝動に身を任す?