2011年04月10日

〔メモ〕公害事件の嚆矢「足尾銅山鉱毒事件」に関する勝海舟の発言

勝海舟bot
http://twitter.com/#!/KatsuKaishuBot/status/57039149550682112
鉱毒問題は、直ちに停止の外ない。今になつてその処置法を講究するは姑息だ。先づ正論によつて撃ち破り、前政府の非を改め、而して後にこそ、その処分法を議すべきである。然らざれば、如何に善き処分法を立つるとも、人心快然たることなし。何時までも鬱積して破裂せざれば、民心遂に離散すべし。



☆勝海舟
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F
また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、同事件では政府の対応を厳しく批判するなど多くの社会事業に携わり



☆榎本武揚
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A
農商務大臣時代には、懸案であった足尾鉱毒事件について初めて予防工事命令を出し、私的ながら大臣自ら初めて現地視察を行った。また、企業と地元民の間の私的な事件であるとしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし帰郷後、大隈重信らにその重要性を説諭、鉱毒調査委員会を設置し、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、自身は引責辞任した。




☆足尾鉱毒事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%B0%BE%E9%89%B1%E6%AF%92%E4%BA%8B%E4%BB%B6

足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、19世紀から20世紀の栃木県、群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山の公害事件。明治時代後期に発生した日本の公害の原点である。足尾銅山鉱毒事件と表記される場合も多い。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。

(略)

さらに西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンをかぞえる東アジア一の銅の産地となる。当時銅は日本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の1/4は足尾銅山が占めていた。しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)は、付近の環境に多大な被害をもたらすこととなる。

(略)

1891年からたびたび田中正造が国会で質問したにもかかわらず、政府は積極的には鉱毒対策を行わなかった。この時代は、1891年刊行の吾妻村民らによる鉱毒の記録集『足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸事情』を発刊直後に発売禁止にするなど、言論封殺が主な対策であった。

(略)

明治34年(1901年)12月10日、日比谷において田中正造が明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行ったが、警備の警官に取り押さえられて失敗。しかし、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、直訴状の内容は広く知れ渡った。田中の直訴後、学生が相次いで団体で足尾見学に向かうなど、世論の盛り上がりにあわてた政府は、1902年に第二次鉱毒調査委員会を設置した。

(略)

第二次鉱毒調査会の報告書を受け、栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県の境に、鉱毒沈殿用の渡良瀬遊水地が作られた。当初、埼玉県側に作られる予定であったが、激しい反対のために栃木県側に予定が変更された。この土地は元々、農業を主な産業としていた栃木県下都賀郡谷中村であった。

谷中村には田中正造が住み、公害運動の拠点となっていたことから、運動をつぶすための決定だといわれた。谷中村はこれに激しく抵抗し、隣の藤岡町との合併案を否決した。谷中村は1906年に強制廃村となり、藤岡町に合併された。



☆田中正造
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0

明治24年(1891年)、鉱毒の害を視察し、第2回衆議院議会で鉱毒問題に関する質問を行った。

(略)

財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。

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posted by はなゆー at 20:44| Comment(1) | TrackBack(0) | キャスターメモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
田中正造先生は、私が尊敬する偉大な政治家です。政治は誰のためにあるのか?という問いに答えていらっしゃる、唯一の政治家だと私は思っています。渡良瀬遊水地に行き、廃村になってしまった谷中村跡を訪れ、先生の、自分の命を懸ける事の凄さに触れる事ができました。自分も先生のような志を持って生きたいと常々思っています。
Posted by FaltenaQueen at 2011年04月11日 00:27
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