2011年04月19日

「脱原発」志向の有権者の票が社民・共産に投じられないようにする策略

大手マスメディアがこぞって「脱原発を掲げる、みんなの党」と連呼(刷り込み)すれば、本来は社民党・共産党に投じられるはずだった「脱原発」志向の有権者の票が「みんなの党」に流れることになる。たとえ世論が「脱原発」「環境保護優先」の方向に傾いた場合でも、選挙で社民党や共産党は伸びずに「みんなの党」が伸びる結果となる。

             ↓

岩上安身(ジャーナリスト)
http://twitter.com/#!/iwakamiyasumi/status/59995975590227968
原発震災の影響は、政界に及びつつある。国会でも審議が。タブーに近かった「脱原発」という単語が、社民党以外の政党からも出始めた。民主党の一部、そして意外なことにみんなの党。原発をめぐって、保守陣営も割れる可能性が。




《おまけ》

☆真田信之
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B

秀吉死後、慶長5年(1600年)に失脚していた五奉行の石田三成が挙兵する。父と弟・信繁は三成ら西軍に付いたのに対し、信幸は家康ら東軍に参加することを決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第二次上田合戦)に参加する。

戦後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5000石(沼田3万石を含む)となり、上田藩主となったが引き続き沼田城で本拠とした。信幸は昌幸らの助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めている。義父の忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され、紀伊九度山へ流罪となる。




☆前田利政
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E6%94%BF

利家の死後に慶長5年(1600年)に五奉行の石田三成らが毛利輝元を擁立して五大老の徳川家康に対して挙兵すると、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如利長たちは金沢へ引き返した。一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるといわれる。このため合戦に間に合わなかった。金沢城へ引き返したあと利長が再出陣した際に利政は動かなかった。その原因は妻が三成の人質となっていたためとも、元々豊臣方であったためとも、どちらが敗れても前田氏の家名を残そうとする策であったともいわれる。

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posted by はなゆー at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事(国内) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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