http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110822-00000015-sph-soci
http://www.asyura2.com/09/news8/msg/619.html
代表となった30代の男性会社員によると、今後はテレビ局を管轄する総務省への抗議活動も検討しているという。
★「韓流抗議デモ」は、当初から「民主党政権を潰すためのデモ」に育成・転用する腹積もりであったように思われる。
《おまけ》
☆清河八郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%B3%E5%85%AB%E9%83%8E
その後、山岡鉄舟らを通して松平春嶽(幕府政事総裁)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、松平上総介(松平忠敏)のもとに浪士組が結成される(234名)。
清河は上手く幕府を出し抜いて今度は佐幕派を京都に集め出した。文久3年(1863年)2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として清河は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。
京都に到着した夜、清河は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。
鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの、200名の手勢を得た清河は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。
このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。清河は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。
文久3年(1863年)4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られた。享年34。
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だろうねえ。
自民は支持母体が韓国のくせに。
民主は日本の労働者層。