http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%A0%BC%E7%B5%8C
北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍であり、加えて天福2年(1234年)には正妻竹御所が死去したこともあり、将軍としての実権はなかった。しかしながら、年齢を重ね官位を高めていくにつれ、義時の次男・北条朝時を筆頭とした反得宗・反執権政治勢力が頼経に接近し、幕府内での権力基盤を徐々に強めていく。また、父の道家と外祖父の西園寺公経が関東申次として幕府・朝廷の双方に権力を振るい始めた事も深刻な問題と化してきた。特に北条氏との関係に配慮してきた公経が死去し、北条氏に反感を抱く父道家が関東申次となると道家が幕政に介入を試みるようになってきた。そのため、頼経と北条経時との関係が悪化し、寛元2年(1244年)経時により将軍職を嫡男の藤原頼嗣に譲らされる。
翌寛元3年(1245年)鎌倉久遠寿量院で出家、行賀と号する。その後もなお鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けるが、名越光時ら北条得宗家への反対勢力による頼経を中心にした執権排斥の動きを察知され、執権時頼により寛元4年(1246年)に京都に送還、京都六波羅の若松殿に移った。また、この事件により九条道家も関東申次を罷免され籠居させられた(宮騒動)。
☆宮騒動
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いっぽう、幼少時に鎌倉へ下向し、執権北条家の傀儡となっていた4代将軍・藤原頼経も成年に達し、自ら政権を握る意志を持ち、反執権勢力の糾合を図っていた。危険を感じた経時は、寛元2年(1244年)頼経を将軍の座から降ろし、子の頼嗣を擁立した。しかし、経時はその後、重病となり寛元4年(1246年)3月、弟・時頼に執権職を譲った直後、閏4月に23歳の若さで死亡する。
経時の死を好機と見た名越光時は、頼経や頼経側近の評定衆の後藤基綱・千葉秀胤・三善康持ら反執権派御家人と連携し、時頼打倒を画策するが、時頼方が機先を制した。閏4月18日深夜より3夜連続して、鎌倉市中に甲冑をつけた武士が群集し、流言が乱れ飛ぶ事件が起きる。これが頼経・光時側を混乱に陥れた。5月24日深夜に起きた地震の翌朝25日、時頼は鎌倉と外部の連絡を遮断した。これらの動きにより光時らは陰謀の発覚を悟り、弟時幸とともに出家し、降伏した。
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