https://twitter.com/#!/miyake_yukiko35/status/149327966587985920
小沢一郎元代表を会長とした勉強会「新しい政策研究会」設立総会。入会者は現在のところ、137名(会で終了後1名増えた)、休会中に関わらず、本人出席は最終的に107名。略称は、新、政、研(しんせいけん)。小沢会長の話が素晴らしかった。
☆陳平
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%B9%B3
陳平も酒と女に溺れ骨抜きになったふりをし、呂雉や夫(樊噲)を捕らえられた恨みを持つ呂須から警戒心を持たれないようにして粛清の嵐を避け、反攻の機を伏して待った。
紀元前180年に呂雉の死を機として、陸賈の助言により陳平は宴会に見せかけ、宮廷内で大尉・周勃を始めとする反呂氏勢力や信頼できる人物を集め、密かに人脈を築き、打ち合わせを重ねていった。監視を徹底していた呂氏も、酒好き女好きの右丞相が行う宴会なので、警戒をしなかった。そして斉王の蜂起と、その討伐に出した灌嬰の寝返りなどに動揺する宮中において策略を用い、周勃などとともに呂雉の甥である呂禄の不安を煽らせるため、呂禄の友人である酈奇の親酈商に迫り、酈奇から「いつまでも中央に居るので、野心があるのではないかと疑われ天下が騒がしくなっています。領地は諸侯も重臣も認めており、帰国すれば疑いも晴れ安泰です」と吹き込ませた。呂禄はそれに従い兵権を返上し、周勃が兵権を取り戻す。そしてその兵で別の甥・呂産の帝位簒奪クーデターを鎮圧。これを口実として呂氏を皆殺しにする逆クーデターを実行し、劉邦の子である代王劉恒(文帝)を立てた。その後まもなく引退したが、周勃と文帝に乞われて再び右丞相となった。
なおクーデター鎮圧の際に、兵権は握ったものの兵士が従うか不明だったため、「劉氏に加担するものは左袒(衣の左の肩を脱ぐ)、呂氏に加担するものは右袒(衣の右の肩を脱ぐ)するよう」との触れを出し、兵士は全て左の肩を脱いだことが、義により味方することを意味する「左袒する」の故事成語となった。
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